コロナ感染をめぐって再考したこと

2020年10月1日

新井野 洋一 (愛知大学)

 竹中平蔵氏は、『ポスト・コロナの「日本改造計画」』(PHP研究所、2020年8月)の冒頭で、パンデミック(感染症の世界的大流行)は、(1)パンデミック後に従前とは大きく異なる社会が訪れること、(2)混乱の中でその社会が持つ弱点が露呈されることの2つの教訓をもたらしてきたと述べている。大学においてもリモートによる教育や研究活動などかつて経験したことのない非日常が日常化し、その流れは逆行することなく、「ウイズ&ポスト・コロナ時代」を形成しつつある。平和で安心・安全で持続可能な地域社会(=日常生活圏)の実現を目指す地域政策の実践と研究においても、新たな対応が求められることは言うまでもない。以上の観点に立って、コロナ感染をめぐって経験した困惑や混乱について一定の整理を試みるものである。

中間集団の意義をめぐって
 パンデミックや大災害の後に必ず再認識されるのが家族や近隣との絆や協働の重要性である。ところで、個人の諸欲求と全国的規模の規範や権力の行使の間にあって両者の意図を媒介する役割を担ってきたのが、中間集団すなわち家族や職場などの諸組織、近隣社会であった。しかし、現代人は、習慣やしきたりを踏襲する「ムラ社会」のしがらみと役職・階級など上下の序列が重視される「タテ社会」のわずらわしさの両方を嫌い、全体社会から遊離し個人化を強めてきたと言える。新型コロナ感染が拡大し、ステイホーム(stay home)=外出自粛という強い規範が発出された。多くの市民は、「家族から自由なほうが楽しい」とか「職場の結束よりプライベートの充実だ」といった個人化志向のライフスタイルに対立する要請をかなり素直に受け入れた。その結果、揺らぎつつあった中間集団の存在意義を幾分なりとも再認識することができたかもしれない。同時に、インターネット(オンライン)の利便性は、全体社会と個人の関係を瞬時に結び付け、中間集団全体主義すなわち個人の人格や感情を集団や組織が細かく支配する現実から逃避する効果を与えた。例えば、いじめや登校拒否に悩む人々にとっては、ステイホームがプラスの現象として受け止められた。

 大学という中間集団はどうであったろうか。多くの大学では学生の学習権を守ることに必死となった。その際の前提と根拠は、当然ながら学生の命と健康を守ることにあった。結果、大学(教員)の義務である正課教育(=授業)は、オンラインというツールによって概ね成功したと言える。しかし、正課外教育すなわち正課教育ではカバーしきれない人間形成の空間(クラブ・サークル活動や学生自治による諸活動、友人交流)を保障することに成功したと言い難い。周知のとおり、大学の機能として地域密着や地域連携・交流を強調する傾向が強まっている。そこでの大学への期待は、大学が持つ専門的教育研究と資源の地域への開放、還元にある。内実的には、学生という若いエネルギーや行動の集合体としての大学に大きな期待があることを忘れてはならない。今回、この期待をリモートで地域に開放、還元することが困難なことを思い知らされた。

 振り返れば、「大学はレジャーランド」すなわち大学は学ぶ場ではなく遊び(余暇活動)の場と化したと言われて久しい。教員・研究者を主語とした話は別の機会に譲るとして、学生生活を思い起こしてみると心当たりの方も多かろう。いずれにせよ、今回のパンデミックは一時的であれレジャーランドとしての大学機能をも奪ってしまった。他方、最近は、大学を「就職予備校」と比喩することも少なくないが、一方で就職にとっても正課外教育の意義が大きく評価されていることは言うまでもない。フィジカルに支えられた若いエネルギーの集合体としての大学を如何に存続させるかは、大学が地域社会の中心的なセクターとなり得るかを左右することにつながる。地域政策にとっての大学の存在を「新たなレジャーランド」論の視点から再考する必要性を強く感じるものである。

「選択と集中」の思考をめぐって
 今回のコロナ感染対策の議論において、常に配慮されたのが経済活動であった。先のステイホームが消費と需要を大幅に低下させ、生産の削減、停止を招き、コロナ感染の脅威と同様に命と健康への危機を巻き起こすと考えられたのである。現に、帝国データバンクによればコロナ感染関連倒産は541件にのぼり(9月23日現在)、失職者6万人を超えた(厚生労働省、9月24日)と報告されている。業種別では「飲食店」「ホテル・旅館」「アパレル・雑貨小売店」「建設・工事業」が上位を占めているという。これらの業種は、いわゆる「3密」の可能性が高い環境下にあり、また取り扱われる材が汎用性に乏しいために柔軟な経営の転換が困難な業種である。そして、そのことに気づいた飲食店では、イートインを諦めてテイクアウト(持ち帰り)やデリバリー(出前)、オンラインショップ(通信販売)への移行を試みた。振り返れば、昭和時代には日常的な光景であった。

 その光景が消えた理由はどこにあったのだろうか。近年の経済活動と経営を支えてきたトレード・オフとコンパチビリティそして「選択と集中(Core Competence)」の進展かもしれない。得意とする、あるいは、得意としたい事業分野を絞り込み、真似できない独自のスキルやサービスに集中する。そのことによって、コストを削減し、投資している経営資源から得られる利益(リターン)を増大させる取り組みであった。そこでは創意工夫が生まれやすく、イノベーションへとつながると期待された。今回のパンデミックは、この論理を逆説的に立証したのではなかろうか。コロナ感染による被害は、感染防止のため休業に協力した事業者に支給された補償金では到底補填できない額に至った。資源が限られている時、確かに集中することなくして成果をあげることはできない。しかし、現実対応に多くのエネルギーを注がれ、長期的視野を見失う場合が少なくない。とにかく、「選択と集中」のデメリットを理解することの重要性を教えられた感がする。

 ところで、地域政策を取り巻く最大の課題は、人口減少を伴う少子高齢化である。ことに地方では深刻である。大きな人口を抱える都市のように人口の数ポイントの消費によって多くの人々の生計を維持させることが難しいからである。それがゆえに、人口が減少する地方では、複数の事業を持つ方が合理的と考えられる。つまり過度な「選択と集中」を止め、コングロマリット(conglomerate)すなわち直接の関係を持たない多岐に渡る業種・業務に参入する産業を志向すべきなのである。現代経営学あるいはマネジメント(management) の発明者であるドラッカーが、集中とは「力を入れる製品・サービスを一つに絞ること」ではなく、「何を軸に事業を運営するかをはっきりさせる」ことだと述べていることを熟考すべきであろう。極論すれば、地域政策の教育現場には、コングロマリットに対応できる、いわば「潰しのきく人材」の育成が求められていると思われる。

危機管理の意味をめぐって
 新型コロナを想定した「新しい生活様式」をつくっていかねばならない現実に置かれた現在、「選択と集中」による効率重視からリスク分散型思考への変化が求められているということであろう。

 地域政策の目標(平和で安心、安全な生活つまり命と健康を守りながらの生活の維持、向上)とは裏腹に、私たちの人生や生活はまさに波乱万丈であり、誰もが大小のhazardつまり危害や妨げに出会う。現在のそれは、コロナ感染とそれに伴うさまざまな障がいであろう。この間、政府や地方自治体(の首長)は、「危機管理」に奔走した。未曽有の事態への大慌ての対応は、ある種「リスクテイク」すなわちハイリスク・ハイリターンのチャレンジでもあった。これに対して、決断の遅れや一貫性の無さを批判したり、一喜一憂したりという反応も起った。行政側にも主権者たる国民にも、risk analysis(リスクの分析)の思考と行動力が希薄であったことが露呈されたのである。riskとcrisisはともに「危険」と訳すことができるが、同じ危険でも起きてしまっている危険がcrisisであり、予想される危険がriskである。その点から言えば、コロナ感染をめぐる危機管理論議は、起きてしまったコロナ感染に対応するcrisis managementに他ならなかったのである。

 命と健康に悪影響を及ぼす可能性に接した時、発生を防止しリスクを低減するための枠組みを整理することをrisk analysis(リスク分析)と称している。これには、(1)risk assessmentつまり有害影響が生じる可能性と影響の程度について追求、評価すること、(2) risk managementつまりリスクを低減するために適切な政策・措置について科学的な妥当性をもって検討・実施すること、(3)risk communicationつまりリスクやリスクに関連する要因などについてステークホルダーがそれぞれの立場から相互に情報や意見を交換することの3つの作業が必要となる。

 コロナをめぐる困惑や混乱の根源は、(3)のrisk communicationの不足にあったと思える。国民の中には、確かにコロナ感染のリスクに対する認知ギャップが見られた。新型コロナの重大性への理解度の差や、「若者は大丈夫」「3密を避ければ予防できる」といった思い込み現象も見られた。そんな中で、政府の専門家会議だけが目立った感がする。残念ながら、この会議では緊急事態に対応するcrisis managementが重視され、ステークホルダーの追加と参画が遅れた。それがゆえに、国民生活、行政やメディア、諸事業の現場は右往左往するばかりだったと思える。ステークホルダーが相互に情報や意見を交換するコミュニケーションこそが、リスクの特性やその影響に関する知識と相互理解を深め、信頼を構築し、リスク評価と危機管理を有効に機能させる道なのではなかろうか。また、用意される情報は、ITやAIの進歩を鑑みれば、アナログからデジタル化されることは必須であろう。同時に、デジタル化されたとしても、受け手の解読行動を経てフィードバックされてこそコミュニケーション・プロセスが完成することに変わりはないことを示唆しておきたい。

 ところで、コロナ感染をめぐって経験した困惑や混乱は、金融業界が新規ビジネスや起業への投資(risk taking)を強力に促進するあまり分散投資(risk hedge)を減速させた様相に似ている。いずれにせよ、起きてしまってからでは遅いことは分かっていたにも関わらず、その準備をおろそかしてきたことをすべての人々が猛省すべきであろう。そして、この際、地域における災害や犯罪などに対する施策が、防災や防犯といった予防の観点を主軸として動いているか再考してみるべきかもしれない。(未完)

Copyright© 日本地域政策学会 , 2024 AllRights Reserved Powered by micata2.