わたしは本当に選んでいるか

2025年4月1日

鈴木 陽子 (高崎経済大学)

 情報を発信し伝達する表現の自由は、情報の受け手からは「知る権利」として捉えられる。この表現の自由の理論的根拠として、自由な表現活動を認めることによって多様な意見が表明され、誤った事実や有害な言論は批判や反論を含む討論によって淘汰され、真理に近づくという思想の自由市場という考えがある。つまり私たちが自由にさまざまな意見や事実に接することは、自己の人格の形成に役立つだけではなく、政治に有効に参加することができるという参政権的役割がある。日本に住所がない在外邦人の国政選挙の選挙権の行使が比例区選挙のみに制限されている状態を違憲と判断した在外邦人選挙権判決(最大判平成17・9・14)で、最高裁判所が「通信手段が地球規模で目覚ましい発達を遂げていることなどによれば,在外国民に候補者個人に関する情報を適正に伝達することが著しく困難であるとはいえなくなったものというべき」としたことからも、知る権利と参政権の関係がみてとれよう。

 当時(2005年)はインターネットから情報を得るためにキーワードを選び検索し、表示されたさまざまな情報を自ら選択する必要があった。現在、インターネット上の情報はキーワードから検索するだけでなく、多くはユーザーの検索履歴やクリック履歴を分析・学習した、見たい(であろう)情報がアルゴリズムによって優先的に表示される、その傾向はSNSで特に顕著だ。このような情報環境において、ユーザーがこのアルゴリズムによって望まない情報からは隔離され、自身の考え方や価値観の「バブル」の中に孤立するフィルターバブルや、自身と似たユーザーをSNSでフォローした結果、SNSでの意見の表明に対して同様な意見のみが返ってくるエコーチェンバーと呼ばれる状況が指摘される。このような環境で思想の自由市場の効果は期待できない。

 少し前に話題となった地方選挙のニュースで、候補者を支持する情報が次々とSNSで流れてきたことにより投票を決めたと話す有権者のインタビューを見た。かくいう私もインターネットのフィルターやSNSの恩恵にどっぷり浸かっている。このようにして半ば自動的に得られた情報は、果たして自分が選んだ情報なのだろうか、自分と似た人たちの声だけを聞いて(読んで)いるだけではないか。そのような情報をもとに「わたし」が選んだことは、本当に「わたし」の判断といえるのか、選んでいるのではなく、選ばされているのではないか、などとテレビを見ながらふと考えた。

 

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